近年、線状降水帯やゲリラ豪雨などが頻発し、土砂崩れがあちこちで発生しています。山で行動中に、目の前でがけ崩れが起きたという体験は幸いにしてないのですが、土砂災害で計画変更を余儀なくされたケースと、がけ崩れ現場に数多く遭遇した体験をご紹介します。
「2011年紀伊半島大水害」発災直後の現場へ
2011年8月下旬に発生した大型の台風12号は、発達しながらゆっくりとした速さで北上し、9月3日に高知県に上陸。瀬戸内海を抜けて岡山県を縦断、4日未明には山陰沖に進み、その後日本海で温帯低気圧に変わりました。上陸したのが週末だったので、予定を変更した登山者も多かったと思います。
筆者は、9月2日金曜日夜発、土日の二日間を富山県にある国立登山研修所での研修会に参加の予定でした。屋内でもできる研修会だったので問題はなかったのですが、週明けの月曜日朝から、熊野古道の取材に行く予定になっていたので、日曜日中に帰宅できるのかが心配でした。ただ、台風はもう過ぎ去っているだろうし、取材そのものは問題ないだろうと楽観していました。富山も大荒れだったものの、帰る頃には高速道路の通行止めも解除になっていて、無事帰宅できました。
9月5日月曜日は台風一過で快晴。朝一番の特急くろしおで南紀白浜へ向かうことになっていたのですが、目覚ましより先に電話で起こされ、
「紀勢本線が運休している。東京からのロケチームは飛行機で関西国際空港へ向かうので、空港で合流してください」という指令。急遽、エアポートリムジンで関空へ。ディレクターやカメラマン、モデルさんたちと合流し、レンタカーで現地へ向かいました。
和歌山県の観光課も絡んでいる仕事なので、現地の状況は役所経由で逐一入ってくるはず。しかし、広範囲にわたって多大な被害が発生しており、全容が把握できていない状態でした。
そして、ロケを予定していた中辺路方面へは、道路が寸断されていてアクセスできないということが現地に向かう直前に判明したのです。
いろいろ検討した結果、海沿いの熊野古道「大辺路」に行き先を変更することになりました。白浜町富田の草堂寺から「富田坂」を登り、安居辻松峠を経て、清流日置川のほとりにある安居の渡し場跡へ下るというコースです。
しかし、歩き始めてわりとすぐ、土砂崩れが起きている箇所が……。
ぱっと見た感じ、それ以上崩れそうでもないし、降雨からある程度時間も経っている。通れないほどでもないので、個人山行だったら、恐らく突っ込んでいたと思うのですが、役所の方が同行していることもあり、絶対に危険なことはできないということで、ルートの取材そのものはあきらめて、クルマでアクセスできるハイライト的なところでモデル撮影だけでもやってしまおうということになりました。
海沿いを通る国道42号を走っていると、たくさんの自衛隊車両を見かけました。大規模災害の現場に来てるんだ、とその時ようやく実感。川はすべて泥流となっていて、エメラルドグリーンの美しい南紀の海に、不気味な茶色い帯となって流れ込んでいました。がけが崩れている箇所もあちこちにあり、結局、山道にはほとんど入れませんでした。
黒潮が洗う風光明媚な海辺の景色の中に、痛々しいがけ崩れの跡が点在。植生が消え去った土の斜面は、何かのバグのようで衝撃的でした。とくに信仰心のようなものはない筆者ですが、このタイミングで、ココに来ることになったのは、きっと何か人為を超えた意味があるんだろうなと感じました。
「熊野の神様に呼ばれたのかも……。道路や鉄道が復旧したら、熊野地方全体の復興のために、たくさんの人に来てもらえるような仕事をしなければ」。
不完全なロケも、復旧後を見据えた内容で進めることになりました。そして、やはり熊野の神様に呼ばれていたようで、翌年春までの半年間に10回も熊野通いをすることになったのです。
3000カ所を超える斜面崩壊が起きた紀伊山地
熊野古道を紹介するガイドブックの取材だったり、道普請のボランティア活動の体験取材だったり、熊野地方のいろいろな場所へ行って、いろんな現場を見たのですが、がけ崩れと言っても千差万別、いろいろな状態がありました。
人工林で皆伐を行うと、表土が崩れやすくなったり植樹されている樹が倒れてしまうこともあるようです。
倒木が大きいと、完全に登山道をふさいでしまうこともあり、そういう現場では道迷いが頻発すると聞きました。
川から一段高いところにあった道が部分的に崩壊して、川床に降りないと通れないような場面もありました。