秀麗富嶽十二景・八番山頂の岩殿山の縦走路上にある名勝・稚児落しをご存知の方も多いかと思います。200mに及ぶと言われる断崖絶壁の淵から見下ろすこと事態が危険と隣り合わせな、この威容の崖は、その恐ろしい名称どおりに恐ろしき人の所業を悲劇として言い伝えられています。
生存のために赤子を谷に投げ落としたことから命名
「稚児落し」にまつわる伝承は戦国時代に遡ります。織田信長と武田勝頼との直接決戦を経て武田家は滅亡。中心の誉れ高き小山田信茂の裏切りにより、勝頼の自死という結末を迎えましたが、織田信長はその勲功ある小山田一族を許すことはなかったようで、信茂処刑にとどまらず、信茂死後の岩殿城に織田軍が攻め入りました。この岩殿城攻めが稚児落しの悲劇を生みました。
信茂側室の千鳥姫が従者らと城落ちし、脱出をはかります。姫と信茂の遺児二人。一人はまだ赤子で万生丸と名付けられていました。谷を見下ろす崖の淵にたどり着いたときに、万生丸が泣き出してしまい、織田軍に気づかれることを恐れた従者がそのまま赤子を谷下に投げ落とした、とされています。