ゆったりと安らぎを感じる湯浴み
対岸に登って数十m行くと広場に出た。周囲は草が刈られており、切り株で造られたイスもあった。誰かがキャンプしたような焚き火の跡も残っていた。
その広場の先に、淡いグリーンの澄んだ綺麗なお湯を湛えた木枠の湯船があった。
その透き通った優しさの漂う柔らかな雰囲気のお湯に、まるで吸い込まれるように身体が自然に惹きつけられるのを感じた。
そっと手を入れてみると42~43度ほどの適温である。何かとても仄々とした嬉しい気持ちになって、ゆっくりと湯船に入る。数人は入れるであろう広さと肩まで浸かれる余裕の深さで、野湯とは思えない快適さである。お湯から漂う柔らかな硫黄臭は野湯マニアに安らぎを与えてくれる。
底には明るい青みがかったグレーの沈殿物が溜まっていて、入湯するとフワッと湯花が舞って淡い乳白色に濁りだした。
山側の斜面には2カ所に差し込まれたパイプがあり、そこから熱めのお湯が湯船に注ぎ込まれている。さらに平たい石が敷かれている底からも湧出があって、しばらくするとお湯はまた仄かなグリーンの透明に戻ってきた。
木枠の周りは、盛り上がった分厚いミズゴケが覆っていて、まるで小人になって日本庭園の中で湯浴みをしている気分になった。
地元の人たちのメンテナンスに感謝
ここには昭和の初期には「安比温泉深山荘」という歴とした名称の温泉宿があった。近くの茶臼岳の山中に鉱山があって、その鉱山会社が管理していたが、戦後に鉱山が閉鎖された後、深山荘は客舎が潰れてそのまま放置されていた。1980年代終盤にこの幻の温泉を知った地元の人々によって、復元されたのだという。
それ以降地元有志が、土砂などを取り除いたり木枠の補修をしたりと手入れをおこなって整備してくれている。元祖安比温泉を愛する地元の人たちに心から感謝したい。
【データ】
■安比温泉
岩手県八幡平市
JR安比高原駅からクルマで約25分
【プロフィール】
瀬戸圭祐(せと・けいすけ)アウトドアアドバイザー、野湯マニア。NPO法人・自転車活用推進研究会理事。自動車メーカー勤務の傍ら、自転車・アウトドア関連の連載、講座などを数多く行っている。著書に、全国各地の野湯を訪ね歩いた冒険譚『命知らずの湯』(三才ブックス)、『快適自転車ライフ宣言』(三栄)、『雪上ハイキングスノーシューの楽しみ方』(JTBパブリッシング)などがある。2024年2月現在、足を運んだ野湯はトータルで約100湯。